一九六二年~一九六四年の間、米国の学究都市・ボストンを震撼させた連続殺人事件をモチーフにした映画です。
主人公アルバート・デサルヴォ役には甘いマスクのトニー・カーティス。この方、『刑事コロンボ』の「忘れられたスター」で犯人役を演じるジャネット・リーの三番目のご亭主でもあります。
マサチューセッツ州ブルックス検事総長は当時の国内唯一の黒人検事総長。あの頃の時代背景を考えると非常に驚きです。また、民主党大好きな州内の公務員で共和党派だったということも更に驚き。そのブルックスから直々に特命タスクフォース指揮を任命されるジョン・S・ボトムリー副総長にはヘンリー・フォンダ。彼とともに犯人を追うディナターレ刑事にはジョージ・ケネディ。イタリア系のフォンダがイングランド系のボトムリーを演じて、アイルランド系のケネディがイタリア系のディナターレを演じるのが何やらあべこべで面白い。事件に関心はなくとも豪華な中高年役者の競演で素晴らしい。
冒頭のクレジットから、本作の特徴ともいえるマルチ画面がガンガン登場します。スタッフ名が流れる横で、最初の殺人を犯し、犯行現場を物色するデサルヴォと思しき男性の姿が漫画のコマのようにスクリーンに映されるのです。この手法は、デサルヴォと被害者とのやりとり(郵便受けの名前を確認してドアまたはインターホン越しに「大家の依頼で修理に来ました」と告げてドアを開けさせるのが映画での手口。デサルヴォは配管工という設定)や遺体を発見する一般人と物言わぬ遺体との対面のシーンで多用されます。例えば、前者ではデサルヴォが狙いを定めたアパートに到着する画面が左半分、アパート内でくつろぐ女性の姿が右半分に映され、デサルヴォがドアを叩くと、右画面の女性がその音に気づいてドアへ向かう…といった斬新なビジュアルです。
作品の前半部分では捜査当局の苦悩、住民のパニックやボストンの性的な暗部がメインに描写されています。観客目線では(少なくとも本作では)デサルヴォが犯人だと分かっていますが、一から捜査を始めるボトムリーらからすれば疑わしい経歴の持ち主は誰でも絞殺魔となりうるわけで、痴漢からいたずら電話魔、DV男に至るまで一斉捜査に奮闘する姿がこれまた分割画面を用いて表現されます。中には振られた腹いせに同性愛者の男性を女性がもっともらしい証拠をつきつけて犯人としてでっち上げる例も。
デサルヴォ視点で物語が動くのは、後半から。顔出しで登場するのは作品が約一時間過ぎた後。普段はふつうの優しい家庭人でありながら、裸のマネキンを見たり、駐車スペースを他人に取られる等嫌な目にあったりすると心の中で飼っている「絞殺魔」が顕在化して凶行に及んでしまう…というのが製作者の見立てのようです。
そんなある日、デサルヴォは独身だと勘違いした次の標的をアパートまでつけていったところ、部屋の中にいた彼女の夫に見つかってしまいます。強盗未遂として追いかけられる途中、デサルヴォは車にはねられて警察に拘束されます。誰にも追われてなどいなかったと法廷で言い張る彼は精神鑑定を受けることが決まり、そこでボトムリーが聞き取りを担当することに。一見温厚そうな学者風のボトムリーに乗せられ、不安と恐怖に駆られながら犯行を独白するカーティスの演技はお見事です。作品自体は犯行の告白・再現を終え、呆けたように佇むデサルヴォの名をボトムリーが呼ぶシーンで終了。
その後「デサルヴォはボストン絞殺魔として裁かれることがないまま収監中であること(本作公開から約五年後にあたる一九七三年十一月、房内で刺殺されているのを発見されます)」「精神疾患患者をサポートする制度はいまだ米国において制定されていない」というやや説教じみたテロップが流れ、エンドクレジットへ。
本作では多重人格障害が殺人鬼を生んだ、と製作者は結論付けています。実際には、モチーフとなった事件は被害者の人種、年齢、社会階層や職業に一貫性が見られない(当初は元ナースの独居老女ばかり狙っていたのが二か月後には若い独身女性が標的となっていた等)ため、上映当時及び今日に至るまではっきりとしていない点が多いようです。今夏になってやっと、犯人と目された(が、これら連続殺人事件の容疑者としてではなく強姦事件の容疑者として拘束)アルバート・デサルヴォのDNAが一連の殺人事件のうち一件と関与している、と現地警察当局が断定したくらいで、実は絞殺魔は複数存在した、という説も有力になっているとのこと。
元FBIプロファイラーとして著名なロバート・レスラーも「被害者のパターンがあまりにも違いすぎているので単独犯行とは考え難い」との見解を示しています。よって、本作は大胆な仮説と脚色によってつくられたフィクションとして受け止めることが肝要かと。